願いと要求の違い
願うとは自分以外への意識

願うというのは、本来は、自分が何か直接は関与出来ないようなことに、もしくは、自分が出来る状態にないから何かを頼むようなときに、何かを託すとかお任せするということです。自分が出来ないので、託す以上、そこには他者への配慮が必要です。また、何の為にという部分も自分以外の為であります。自分の利害はそこには存在していません。この時、願いはうまく循環していきます。例えば、神社で神様にお願いする時、自分でも最大限出来ることをし、自分以外のことを祈るとき、願いは通りやすい状態になっていきます。ところが、お願いする相手が人ですと、途端に自分に配慮し始めます。この時、お願いだったものが要求へと変質します。

要求とは対決姿勢

お願いする以上、そこには範囲や程度が含まれてはなりません。そういうものを設定してしまうと、自分の考えと相手の考えの違いが際立ち、納得がいかないということが生じてきます。そもそも願いがどこまで叶うかは、自分の普段の周りの方に対する気持ちの向けようで変わります。あなたが、周りの人を信頼していない状態であれば、その願いは通りにくいのです。また、お願いする時に一般論みたいなものを振りかざしてはいけません。それは、そうすべきことが当然であるという圧力に他なりません。圧力をかけて要求するということは、不足しているということです。自分が行っていることに対して、頂くものが足りないという発想です。これは、お互いが利用し合っているのなら成立するものです。しかし、家庭では絶対に通用しません。そこは対価で成り立っているのではなく、無条件の扶助、つまり助け合いの精神で成り立っているからです。そこに自分だけがとか、損しているという発想は存在出来ません。

夫婦の争いは子供が吸収する可能性

家庭において、要求を通そうとすると、必ず争いが生じます。そこには、権利を主張するということが発生します。権利とは分裂を招きます。家庭は、そのような場ではないので、エネルギーが乱れます。これをおさめることの出来るのは、その権利に関わらない存在になります。親子で揉めてしまうと、揉めている当人以外の人。夫婦で揉めてしまうと子供です。特に問題なのは、バランスをとることが子供に求められた時です。おさめるというのは、本人が意識するとかしないとかに関わらず、そうさせられるということになり、その存在が色々な形で何かを受けてしまいます。子供は、それを受けきれません。ですので、様々な形で噴出します。

言葉は方向性を持たない

家庭内での言葉は愛ある言葉でないと、言葉とは方向性を持たないので、周りで聞いている人すべてに影響します。言葉とは、成熟していない脳には深刻な影響を与えます。つまり、子供にとり周囲の大人が話す言葉、その話し方というのは、重大な意味を持つということです。言葉の響きに攻撃性があれば、それが脳に与えるダメージは相当なものです。揉めるということは、それが自分本位にたっていないか、よくよく考えないといけません。揉めること全てが悪いわけではありません。そこに自分以外の為にということが乗っかっている限りは、その言葉には、愛が発生します。激しい口調でもそこには愛があるので、子供の脳には良い影響となります。しかし、気を付けないといけないのは、子供の為にということを利用して自分の主張を押し通そうとしてしまわないことです。それは、要求で願いではありません。

子供は願う中に要求が

要求ということが許されるのは、子供だけです。子供が親に対して愛を要求する。それは、親が要求に応えないといけません。愛とは、構って欲しいということです。その子供の愛の要求は無限です。子供のよくわからない振る舞いは、親への願いの表現です。親にとっては、理解しにくいことが多いです。だからこそ、その理解をしようと心を寄り添わせなければなりません。難しいです。願いの表現に乱されないように、その表現の陰には、ただ、あなたを求めているということがあるだけです。

この記事を書いた人

堺市北区の中百舌鳥にて占い師をしています。

このブログでは、運命改善に役立つ考え方を書いています。日常どのように考え過ごすと良いかという疑問に答えたく、みなさんが少しでも不安を取り除き、また、自分を見直すヒントとなりますようにスピリチュアルという不可思議な世界観を嚙み砕き、わかりやすく説明しています。占いは、当てものではございません。みなさんが自分で答えを見つけていく、そのヒントをお伝えするものです。このブログから、みなさんが開運するきっかけを見つけられることを願います。