人は非日常を求めて体験しようとする
希望と学び

人は変わる為に様々な行動を起こします。それは、実は変わろうというのではなく、変えようという動きです。変わるというのは、何かを通して自分の考えを本質的に改革していくということで、多大なる意志の強さが求められます。

変えるというのは、何かを通して、自分の存在を強め、自分に有利になるように物事を計るということです。

変わると変えるでは、全く意味が異なり、取り違えると大変なことになりますのでお伝えしたいと思います。

人が状況を変えようとするものに「学び」があります。何か新しいこと未知のことを学び、可能性を探ります。これは、どんなことでも、学びから始まりますので、まず、そこに何らかの希望を見出し、取り組んでいくということが出来ただけでも大きな一歩となります。

学びが進んでいくと、実際にそれを活かすという段階に移っていきます。この時、自分の置かれる環境は、その学びが通用しないというものを痛感するというものです。

そこから、経験という段階に移っていきます。学びに経験が加わると、認められる、任されるという環境がやってきます。この時、自分の中でも、ある一定の型みたいなものが出来て、何かを変えることが出来た充実感があります。

ここまでが「変える」という動きになります。何かを学び取ることで自分の価値を上げ、周囲が自分を認めているという状況です。

しかし、大事なのは、そこから先なのです。

どんなに知識を得ても、どんなに技術を磨いても、そこから先を変えることは不可能です。何かを得て成長するというものの限界がきます。新しい技術や新しい知識は、全て、今あることの延長線上のもの、つまり基本がしっかり固まっているとすれば、それらには対応可能なのです。

自分というものを誇示して、周りに自分を認めさせるというものは、一定程度必要ではありますが、そこに固執し続けると、運命は止まります。

そこから先は、「変わる」ということにシフトチェンジしていかないと、せっかく自分が築き上げたものが、全て崩壊するということにも成りかねません。

「変わる」というのは、ひと言でいえば、人間性を高めるということです。その為には、周りをなんとか変えようとするのではなく、自分が変わっていくことを追及していくということです。

「変化」とは第一段階では、周りが変わり、それが心地よいものですが、その心地よいことに囚われていると、方向性を見失い自滅していきます。そうならないように、徐々に周りを変えるという執着から離れていかなければなりません。

象徴と体力系

周りを変えるということに執着していると、どう見られるかということに執着が始まります。本来は、自分が変わることで周りの人が自分を見る何かが変わっていきます。自然に人を惹きつける魅力が出てくるからです。この自然にということが人の雰囲気にはとても大事です。そのベースがないのに無理に見せようとするものには、偽物感が漂います。

形だけ見せようとしても、他の事とは違い、そこから何かが整うということはありません。

良く見えたいという意識は大切ですが、例えば、化粧品があなたを変えるわけではありません。バストアップやヒップアップやダイエットをしてもあなたを変えるわけではありません。筋肉を鍛えても変わるわけではありません。スポーツをしても輝くわけでもありません。それらは、非日常的である為に体験したい、やってみたいという欲を満たす行為です。欲を満たすのは,生きていく上で必要ではあります。

それは、

人は常にストレスに晒されていますから、それを解放する手段としては必要だということです。

ストレスは、形を変えれたということで解放しやすいです。それは錯覚ではあります。実際は、自分も変わっていないし、周りが自分を見る目も変わっていません。顔や体型は、変化の象徴として人は捉えます。本当は本質が変わってこそ、その象徴が輝くのですが、そこを無理くり、いじることで、綺麗になった、カッコよくなった、と満足感の錯覚が起きます。

また、ストレスは体を動かすということでも解放しやすいです。これは、ある種、人があまりやらないことですから、そこを積極的にやれる自分は人とは違うという満足感が生まれてきます。実は、そんなものは、人から見れば、たいしたことない要素に過ぎないのですが、何かが上達していくというのは、何かを変えているという錯覚が起きますので、ストレスの解放には役立ちます。

重要なのは、本質的に自分が変わっていく状況を整えるということです。

そのストレス解放の手段を用いながら、自分が変わるということに意識を運びやすくなるようにやっていくということが大事です。

逃避と仮想空間

象徴的な部分を変えたり、体力系で努力したりすることでストレスが解消できる方もいますが、その手段だけでは、ストレスというのは、なかなか取り除くのが難しくはあります。

ストレスの要因が、身近な家庭にある場合などは、気持ちのもっていく場所自体がない状態なので、気が休まりません。その場所を追い求めて、現実逃避できる手段を探します。これは、一定程度、誰にでも欲求があるものです。ショッピングに行くのもそうですし、何かを勉強してみようというのもそうです。日常的には、テレビを見たり、音楽を聞いたり、外食したり全てある種の仮想体験を求めた行動です。そういった中で自分の気持ちをなんとか整えて明日への活力を取り戻しているのです。

その調整をする間もなく色々なことが起こり過ぎてくると、身を守る必要性から大きなリアクションをとることになります。これは、家族の愛が足りなくてなることもしばしばですが、家族の愛が多くても外部での本人への攻撃や劣悪な環境があると守り切れないものです。このような時に逃避は生じてきます。

現実逃避には積極的逃避と消極的逃避があります。

積極的逃避は、刺激を求めて外へ動きます。消極的逃避は、刺激を避けて内に動きます。

積極的逃避は、その時だけ楽しければ良いとなりがちなので、危険な行為に走る可能性もあります。人に迷惑となる行為に走りがちです。刺激を求めている為、よろしくない人間関係も構築されてくる可能性もあります。

消極的逃避は、とにかく全てを忘れていたいと思います。そうする為に、孤立した空間が心地よく、何かに没頭してのめりこむのが無感覚というものを作り出せるので、異常な集中力を見せて何かをします。それは、例えば、ゲームなどのようなものです。

このような時、大事なのは、矯正しようとしないことです。そういった動きには、徹底的にあらがってきます。なぜなら、それは自分を攻撃していると捉えるからです。

周りの家族が出来ることは、焦る気持ちをなんとか抑えて、愛を与え続けることです。時間はかかります。しかし、それが最短の改善策です。

挽回と移動

人は常に何かをしていないと不安です。それは、人は時間という概念と共にあるからです。本来、行動するというのは、自然な感覚の元で行われるべきですが、時間は、規則性を作り出している為、人はいつも通りに出来ないことがあると、何かしくじった感がでて無駄を作り出してしまったことを後悔します。

それがまた、ストレスとなります。一度狂いが出ると、何か調子が上がらず、物事が後回し後回しになっていきます。

それを、どこかで調整しようと挽回を試みるのですが、やる気が続かず、さらなる狂いが生じてきて、もはや、どこから手を付けてよいいのかわからなくなるという事態になっていきます。

このような時、人は今いる自分の環境を変えようと企みます。環境が変わると何かリセットされたように感じ、喪失感が消えるような錯覚をするからです。

その体験は、ストレス解放の手段として必要ではありますが、多くの方の間違いが否定的移動で肯定的移動になっていないというのがあります。

移動には、物の配置を変えたり物を捨てたり買ったりするもの。職場を変えるもの。旅行。同じ悩みを持つ人の集会に参加。などがあります。これらをする時に大事になるのは、現状の再認識からの自分の意思の構築です。自らが行動することで何らかの変化を生み出す意識です。

ですが、多くの方の移動は、受け身的思考によるもので、環境が悪いから自分は今こうなってしまっているので環境を変えたら何とかなるというものになっています。

物事が変わるとき、そこには必ず、「自分の意識が変わる」ということがあります。

同じことをしていても、意識の違いで結果は全く変わるのです。

無を求める

では、人は常に何を意識して自分を見つめていけば良いのでしょうか?

よく言われる無念無想とは、何も考えず、何も思わない境地ではありません。

無念無想とは、家族の為に大事な存在の為に、自分の一切を捨てきり、その家族・存在の為にだけ自分が活かされているという状態です。それが自分が無になっているということです。

瞑想しても無になどはなれません。身近な所に、どれだけ自分の意識を向けることが出来るか。。

身近にしか自分が変わる機会はありません。

あなたは何を意識し、どう過せば良いでしょう。

この記事を書いた人

堺市北区の中百舌鳥にて占い師をしています。

このブログでは、運命改善に役立つ考え方を書いています。日常どのように考え過ごすと良いかという疑問に答えたく、みなさんが少しでも不安を取り除き、また、自分を見直すヒントとなりますようにスピリチュアルという不可思議な世界観を嚙み砕き、わかりやすく説明しています。占いは、当てものではございません。みなさんが自分で答えを見つけていく、そのヒントをお伝えするものです。このブログから、みなさんが開運するきっかけを見つけられることを願います。